歴史

神道流から神道一心流兵法への発展経緯

櫛淵八彌の動向

その後、越後陣屋代官羽倉権九郎の求めにより代官所にて剣術指南、さらに伊勢屋剣術道場で剣術師範、越後五泉の高田藩から剣術指南の求めに応じて越後で五年間を経たが、寛政元年 越後陣屋代官 羽倉権九郎が大阪鈴木町代官に封移され、下牧 玉泉寺住職の曇照和尚が丹波國 正福寺に移ったので、八彌は羽倉権九郎とともに上方へ旅立った。

伊勢神宮を参拝、京都の祇園を楽しみ、羽倉氏の紹介で大阪城代 堀田氏の家臣で槍の名人 佐分利佐内に出会う。佐分利氏は、八彌の剣術、薙刀術、槍術を披見。大坂城代 堀田相模守から剣術、薙刀術の師範として召抱えの内旨を受けるが城外の宅道場は不許為るが由に断ったという。

その後、元後閑村 玉泉寺住職であり今は丹波國 正福寺の曇照和尚を尋ねている。この曇照和尚の薦めで武号を得たが、法語『窮盡虚空 微塵利中』の虚と中を引いたというが、天明五年にはすでに免状に虚中軒の印がみえるので玉泉寺時代の事であろう。

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