神道流から神道一心流兵法への発展経緯
桓武天皇に繋がる高望王の裔、滋野氏が信州を領知した。その一族に秋元庄を領知した秋元和泉守盛貞のとき、阿波國管領細川氏の知遇を経て阿波國 櫛淵城の城主になったという。
その裔、櫛淵左近のとき戦国天正年間十河存保の旗下にあり、長曾我部氏との中富川槍場の合戦で敗れて櫛淵盛之は戦死。その子、櫛淵主税宣常なる者が関東に逃れ来て鹿嶋の地で、元祖 飯篠長威斎家直の創始した鹿嶋神傳神道流剣術をその四代飯篠山城守盛綱の門下で修行し、やがて奥義を伝授され高弟となった。
当時、沼田には、滋野氏流の真田伊豆守信之が沼田城主ゆえに真田氏の客分となり櫛淵常元の代で、利根郡後閑村を領知となるも真田伊賀守信利代で改易となり後閑に土着した。
櫛淵家では神道流を家傳として以後、絶えることなく嫡子に傳承。宣常の六代の孫の宣久に至る宣久の嫡子、八彌は九歳より稽古を始めたが、身軽く五人力の若者に成長。十八歳で神道流剣術の免許を傳授されるや武者修行へ旅立つ。
そして凡二十年の武者修行により是極流剣術、三和無敵流剣術、揚心流剣術、直心影流剣術、微塵流剣術、戸田流薙刀術、宝蔵院流槍術、八流派の流儀を免許、各流儀の奥儀を達した。これらは全て鹿嶋の武術に発しているので、修行した武術を基に講究編成して新たな一つの流儀を編成すべく、天明五年 早春より上州三峯山河内神社に百日参籠、ついには新たな流儀を編成した。
微塵流宗家、秋尾利泰の曰く
「直にして霊なるは神道か 復習して妙なるは一心か」
かくして神道一心流兵法と命名、父 宣久は大いに喜び三千坪の敷地に大きな道場を築くと利根沼田はもとより上州、越後からも入門者が来たと言う。